辞書づくりの世界 ― 1冊の辞書に込められた、途方もない人間の営み

あなたが最後に辞書をめくったのはいつだろう。スマホで検索すれば0.3秒で答えが出る時代、紙の辞書は「もう要らないもの」になりつつある。しかしその1冊には、何十年もの歳月と、何千人もの人間の執念が詰まっている。

三浦しをんの小説『舟を編む』は、辞書を「言葉の海を渡る舟」にたとえた。実際、辞書編纂とは文字通り「海を渡る」ような冒険だ。三省堂国語辞典は約8万語を十数人で作り広辞苑は約25万項目を約10年かけて改訂する。グリム兄弟のドイツ語辞典に至っては、完結まで123年を要した。

ある意味、辞書づくりは「人間の寿命を超えるプロジェクト」だ。この記事では、日本と世界の辞書文化を深掘りし、1冊の辞書がどれほど途方もない営みの結晶であるかを明らかにする。

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登場人物と相関図

まずは、この記事に登場する主要な辞書と人物を整理しておこう。料理番組で最初に食材を並べるように、先に「登場人物」を頭に入れておくとグッと読みやすくなる。

日本の主要辞書と編纂者

辞書名 出版社 規模 キーパーソン 特徴
三省堂国語辞典 三省堂 約84,000語 飯間浩明(編集委員) 「要するに」が分かる新語に強い辞典
広辞苑 岩波書店 約250,000項目 平木靖成(編集部副部長) 国語+百科の「国民的辞典」
新明解国語辞典 三省堂 約79,000語 山田忠雄(初代編輯主幹) 「読む辞書」、語釈が個性的
岩波国語辞典 岩波書店 中型 赤峯裕子・奈良林愛 規範主義寄りの格調高い辞典
日本国語大辞典 小学館 500,000語 松井栄一ほか 日本最大の大型国語辞典

世界の主要辞書

辞書名 収録語数 編纂期間 特徴
Oxford English Dictionary (OED) イギリス 520,779エントリー 1857年着手〜現在進行中 歴史主義の最高峰
Merriam-Webster アメリカ 約470,000語 1828年〜 記述主義、北米最大の編集チーム
アカデミー・フランセーズ辞典 フランス 約53,000語 1694年初版〜 規範主義の極致
グリム兄弟ドイツ語辞典 ドイツ 330,000語 1838年〜1961年(123年) 童話の作者による壮大な辞書
Diccionario de la lengua española スペイン 93,000エントリー 1726年初版〜 22カ国が協力
中華字海 中国 85,568字 1994年刊行 世界最大の漢字辞典

辞書づくりの相関図

┌─────────────────────────────────────────────────┐
│                   辞書の世界                      │
├────────────────┬────────────────────────────────┤
│  【日本】       │  【世界】                       │
│                │                                │
│  三省堂国語辞典 ←→ 新明解国語辞典               │
│   (飯間浩明)      (山田忠雄)                     │
│    ↑同じ三省堂だが方針が真逆                     │
│                │                                │
│  広辞苑 ←→ 岩波国語辞典                         │
│   (平木靖成)  (赤峯裕子)                         │
│    ↑同じ岩波書店で校正チーム共有                  │
│                │                                │
│  日本国語大辞典│  OED (イギリス) ← 歴史主義      │
│   (50万語の王者)│  M-W (アメリカ) ← 記述主義      │
│                │  AF辞典 (フランス) ← 規範主義    │
│                │  グリム辞典 (ドイツ) ← 123年の執念│
│                │  RAE (スペイン) ← 22カ国連携     │
└────────────────┴────────────────────────────────┘

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辞書ができるまで ― 5つのステップ

辞書づくりを家づくりに例えるなら、「言葉を集める」のは木材の調達、「見出し語の選定」は設計図の確定、「語釈を書く」は大工仕事、「校正」は検査、そして「改訂」は永遠のリフォームだ。ここでは各ステップを見ていこう。

ステップ1: 用例採集 ― 言葉のハンター

辞書編纂の第一歩は、言葉を集めること。これを「用例採集」と呼ぶ。

三省堂国語辞典の編集委員・飯間浩明は、1967年香川県生まれ。早稲田大学在学中に国語学者・大野晋の講演に感銘を受け、大学院で見坊豪紀の著書に出合ったことが辞書編纂者への道を決定づけた。飯間は日常生活のあらゆる場面で言葉を採集する。新聞、雑誌、書籍、テレビ、インターネット、会話、街中の看板やポスター――「おや?」と思った言葉があれば、すぐに記録する。

これはスーパーで買い物しているときに「あ、これ面白い商品だ」とカゴに入れるのに似ている。ただし辞書編纂者のカゴには底がない。大学院時代のスクラップ帳に新聞記事を集め始めた頃、「ファミリーレストラン」が「ファミレ」と略されていた用例を見つけてファイリングした、と飯間は振り返る。

一方、アメリカのMerriam-Websterでは「citations file(引用ファイル)」と呼ばれるデータベースに用例を蓄積する。編集者のKory Stamperは著書『Word by Word』で、シリアルの箱からシャンプーのボトルまで、テキストのあるものすべてが用例の対象だと語る。イギリスのOEDでは800人以上のボランティアが引用を収集し、膨大な用例を支えてきた。

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ステップ2: 見出し語の選定 ― 何を載せ、何を落とすか

集めた言葉をすべて辞書に載せるわけにはいかない。ここが編纂者の腕の見せどころだ。

三省堂国語辞典の第七版改訂時には、候補約1万語のうち4千語が追加された。追加の基準は明快だ――「世の中に定着して、幅広い人が使っている」こと、そして「少なくとも10年は使われる可能性が高い」こと。これは就職活動の書類選考に似ている。応募者(候補語)は1万人いるが、内定(掲載)を出せるのは4千人だけだ。

面白いエピソードがある。広辞苑の第六版刊行時、新聞記者から「なぜ『できちゃった婚』を載せなかったのか」と質問されたことがあった。結果的に「できちゃった婚」は使われなくなり、載せなかったのは正解だった。岩波書店の奈良林愛は「揶揄する感じにも聞こえますし」と振り返る。毎日新聞の過去記事で調べると、2014年、2015年、2017年には使用例が一件もなかったという。

一方で、第八版の改訂では約3500語を追加し、「ソーシャルディスタンス」「人流」「黙食」などが新たに収録された。「MD」「コギャル」「スッチー」などは削除。辞書は「言葉の生死」を判定する裁判所でもあるのだ。

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ステップ3: 語釈を書く ― 一番難しい「小さな言葉」

語釈とは、言葉の意味を説明する文章のこと。これが辞書の心臓部だ。

Merriam-Websterの編集者Kory Stamperが強調するのは、難しいのは長い専門用語ではなく、"but" "like" "as" のような小さな言葉だということ。"take"という単語ひとつに丸1カ月かかったと彼女は明かす。日本語でいえば「する」「こと」のような基本語の説明が最も難しい。

飯間浩明が「会心の出来!」と語る語釈は、意外にも「戸棚」だ。多くの辞書が「三方を板で囲い、戸をつけたもの」と説明するが、「三方」がどこかが分からない。飯間は正確に説明できたと自負する。

辞書の語釈スタイルは「規範主義」と「記述主義」に大別できる。前者は「正しい使い方」を示すアプローチで、岩波国語辞典は最も保守的な「規範主義」と評される。後者は「実際にどう使われているか」を記録するアプローチで、三省堂国語辞典やMerriam-Websterがこれにあたる。

そして忘れてはならないのが新明解国語辞典の個性的な語釈だ。「読書」を「一時現実の世界を離れ、精神を未知の世界に遊ばせたり人生観を確固不動のものたらしめたりするために本を読むこと」と説明し、「寝転がって漫画本を見たり電車の中で週刊誌を読んだりすることは、本来の読書には含まれない」と注をつける。辞書なのにエッセイのような語釈は、赤瀬川原平の『新解さんの謎』でベストセラーとなり、累計2200万部の売上を支えた。

これはレシピ本に例えると分かりやすい。岩波国語辞典は「材料と手順を淡々と書く」タイプ、新明解は「このパスタの真髄は~にある。インスタントのソースを使うのは料理とは言えない」と書くタイプ。どちらが好きかは、あなたの性格次第だ。

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ステップ4: 校正・校閲 ― 「し」はいつまでも終わらない

語釈が書き上がったら、次は校正だ。これがまた地獄のように大変な作業である。

岩波書店の辞典編集部では、校正を外部のプロと混成チームで行う。社員は限られた人数しかいないため、外部の校正者に9時から5時の勤務で社内に常駐してもらう。赤峯裕子は「初校では『さ』のゲラを担当したから再校では『す』を担当する、という具合に目を変えて読む」と説明する。

ここで問題になるのが「し」の校正だ。「し」は「しゃ、しゅ、しょ」で始まる言葉や漢字母項目が多く、「いつまでたっても終わらないのでうんざりします」と赤峯は嘆く。これは引っ越しの荷造りで最後のクローゼットを開けたら、想像の3倍の量が詰まっていた感覚に近い。

広辞苑の校正はさらに厳しい。版面のルールが厳格で、見出しが長いと行末で引っかかり、化学式が行をまたぐと「これを動かすの」と頭を抱える。しかも図版が入っていると、さらに複雑になる。

歴史的な事件もある。岩波国語辞典の第3版(1979年)は、岩波書店初のコンピューター組版に挑戦した版だった。当時のコンピューター組版は画面がなく、オペレーターが差し替えた結果を確認できなかった。結果、大量の誤植が発生し、正誤表を出す事態に。「そういう目には遭いたくない」と後輩の編集者は震え上がる。

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ステップ5: 改訂 ― 辞書に「完成」はない

辞書に「完成」はない。言葉が変わり続けるかぎり、辞書も変わり続けなければならない。

広辞苑は約10年ごとに改訂され、第七版(2018年)では約1万項目を追加、全面的に記述を見直した。平木靖成は「言葉の定着度を判断するには10年くらいは必要」と語る。三省堂国語辞典は6〜8年のサイクルで改訂される。

OEDは1857年に着手し、初版が完結したのは1928年。第2版(1989年)は20巻21,730ページ。2000年からオンラインで第3版の編纂が進行中だが、紙での出版はもうないかもしれない。

辞書の改訂は「永遠のリフォーム」だ。新築が完成した瞬間にもう次の修繕計画が始まる。飯間浩明も「完成した時点では『素晴らしい辞書ができた』と思うんですが、その満足感は1カ月持続するかどうか」と明かす。

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紙と装丁へのこだわり ― 髪の毛より薄い紙の秘密

辞書を手にとって驚くのは、その紙の薄さだ。これは普通の紙ではない。「インディアペーパー」と呼ばれる特殊な用紙で、海外では聖書に使われることから「バイブルペーパー」とも呼ばれる。

インディアペーパーの開発史

日本初のインディアペーパーは、三省堂の創業者・亀井忠一の執念から生まれた。忠一はポケット用の小型辞典を出版したいと考えていたが、それには「薄くて透けない紙」が不可欠だった。紙の卸商・中井商店の岡本経紀が訪ねてくるたびに、「薄くて不透明で裏うつりせず、両面印刷のきく紙がほしい」と繰り返した。

忠一が王子製紙に求めた条件はこうだ:

  1. 能うかぎり薄いこと
  2. 紙質が均一で不透明なこと
  3. 紙面に光沢があり滑らかなこと
  4. 色合いが純白なこと
  5. 塵埃の混入が皆無なこと
  6. インクの滲透を防ぐこと

開発を担当した真壁技師は、ある夜夢を見た。工場で作っている紙巻きたばこの巻紙(シガレットペーパー)を少し厚めに抄いて、スーパーカレンダーをかけたら? ――夢のとおりに試してみると、忠一の持参したイギリス製バイブル用紙と同じ厚さの紙ができた。1921年(大正10年)のことだ。

これは「カップ焼きそばの湯切りのアイデアが夢に出てきた」ようなものだ。まさに天啓である。

辞書用紙のスペック

インディアペーパーの坪量は20〜40g/m2日本製紙パピリアは28g/m2から42g/m2まで6種類のラインナップを揃える。通常のオフィス用紙が約80g/m2であることを考えると、その薄さが分かるだろう。

紙の種類 坪量(g/m2) 用途 厚さの目安
インディアペーパー(最薄) 28 辞書・六法全書 髪の毛(50μm)より薄い38μm
バイブルペーパー 28〜40 聖書 同等
新聞用紙 約52 新聞 約70μm
一般オフィス用紙 80 コピー・印刷 約100μm

不透明度を確保するために酸化チタン、炭酸カルシウム、クレーなどの填料を配合するが、入れすぎると紙の強度が落ちる。このバランスが極めて難しい。

三省堂印刷の一貫生産体制

辞書の印刷・製本は高度な技術を要する。三省堂印刷はインディア紙を用いた辞書や経典などの装丁本を、組版・印刷・製本まで一貫生産する珍しい企業だ。薄紙印刷は紙がすぐにシワになったり、何枚もくっついたり、色ズレが起きやすい。辞書印刷に慣れていない印刷所では手に負えない。

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世界の辞書文化 ― 国ごとにこんなに違う

辞書のつくり方は、その国の文化そのものを映し出す。日本だけでなく、世界の辞書文化を旅してみよう。

イギリス: OEDと歴史主義

イギリスの辞書文化は、2人の巨人から始まる。

まず、サミュエル・ジョンソン。1746年にロンドンの書店組合から依頼を受け、たった一人で9年かけて1755年に『Dictionary of the English Language』を完成させた。42,773語を収録し、引用で定義を裏付けた初の英語辞書とされる。OEDが完成するまでの173年間、英語辞書の最高峰だった。

次に、Oxford English Dictionary(OED)。1857年に着手し、1884年から分冊で刊行が始まり、初版が完結したのは1928年。第2版(1989年)は20巻21,730ページ、2026年1月時点で520,779エントリー、888,251の語義を収録する。「歴史主義」を徹底し、最古の用例から現代まで、言葉の変遷を追跡する。

OEDの凄まじさを例えるなら、「全人類の家系図を、最初の祖先から現在まで書く」ようなものだ。

アメリカ: ウェブスターと「記述主義」

ノア・ウェブスターは21年をかけて、1828年に『American Dictionary of the English Language』を完成させた。10,000語以上の「アメリカ英語」の語彙を新たに収録した、画期的な辞書だった。「colour」を「color」に、「centre」を「center」に――アメリカ英語のスペリングはここから確立された。

その後継者Merriam-Websterは、1870年代から常設の編集スタッフを維持し、北米最大の辞書編集チームを誇る。同社の方針は「記述主義」――言葉を「こう使うべき」と規定するのではなく、「実際にこう使われている」と記録する。

Kory Stamperは、1990年代初めまでMerriam-Websterの編集フロアには「沈黙のルール」があったと書いている。図書館よりも静かなオフィスで、編集者たちは黙々と言葉と向き合っていた。

フランス: アカデミー・フランセーズと「純化」

アカデミー・フランセーズは1635年に設立され、1694年に初版辞書を刊行した。「フランス語をいかに正しく使うか」を定める機関であり、規範主義の極致だ。

驚くべきは第9版の制作期間。1986年に着手し、2024年11月に完結。実に38年。約53,000語を収録し、2024年11月にマクロン大統領に完成版が贈呈された。しかし、第1巻(1992年刊行)はすでに32年前のもので時代遅れになっていたため、189語の補遺が追加された。

38年かけて辞書を作るというのは、「マイホームの建築を始めたら、完成した頃には孫が生まれていた」ようなものだ。

ドイツ: グリム兄弟の「もう一つの仕事」

グリム兄弟といえば童話が有名だが、彼らの最大のプロジェクトはドイツ語辞典(Deutsches Worterbuch)だった。1838年に着手し、当初は10年で完成する見込みだった。しかし現実は甘くなかった。

弟ヴィルヘルムはDの項を書き上げて1859年に死去。兄ヤーコブはA、B、C、Eを完成させ、「Frucht(果物)」の項を書いている途中の1863年に亡くなった。辞書はFで止まったのだ。その後、後継の学者たちが引き継ぎ、完結は1961年。着手から123年後のことだった。33巻、330,000語以上のエントリーを収録する。

これは「リレーマラソンで1走者目が倒れても、100人がバトンをつないでゴールした」物語だ。

スペイン: RAEと「スペイン語圏」の統一

スペイン王立アカデミー(RAE)は1713年に設立され、1726〜1739年に初版辞書(Diccionario de autoridades)を刊行した。現在は約93,000エントリーを収録し、特筆すべきは22カ国のスペイン語アカデミーとの協力体制だ。メキシコ、アルゼンチン、コロンビアなど、スペイン語が公用語の国々と連携し、「スペイン語圏全体の辞書」を目指している。

これはEUの共通通貨ユーロのようなもの。複数の国が「言葉」という共通資産を一緒に管理するのだ。

中国: 漢字の海を渡る

漢字辞典の歴史は古い。後漢の許慎が100年頃に編んだ『説文解字』、1716年の『康熙字典』を経て、1994年の『中華字海』は85,568字を収録し、世界最大の漢字辞典とされる。

85,568字というのは途方もない数だ。日本の常用漢字が2,136字であることを考えると、その約40倍。漢字の海は本当に底なしだ。

韓国: 言語の独立と辞書

韓国の辞書史は、言語弾圧との闘いの歴史でもある。

朝鮮語学会は1921年に設立され、1929年から辞書編纂に着手した。しかし、日本統治下で韓国語の使用が抑圧され、33人の理事が投獄された。それでも編纂作業は秘密裏に続けられた。

朝鮮戦争(1950〜1953年)中には、原稿が焼失する危機に瀕した。戦火を逃れるため、数人の学者が40日かけて手書きで原稿を複写し、辞書の命を救った。1947年にはロックフェラー財団が出版費用として45,000ドルを助成し、最終的に全6巻の辞書が完成した。

辞書とは単なる「言葉の一覧表」ではない。韓国にとっては民族のアイデンティティそのものだったのだ。

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日本 vs 世界の辞書 ― 比較表

ここまでの情報を一覧にまとめよう。辞書を買うときの「価格比較サイト」のように、一目で違いが分かる。

主要辞書の規模・編纂年数比較

辞書名 収録規模 初版着手〜完結 改訂サイクル 方針
広辞苑 日本 約250,000項目 1955年初版 約10年 百科+国語
三省堂国語辞典 日本 約84,000語 1960年初版 6〜8年 記述主義・新語重視
新明解国語辞典 日本 約79,000語 1972年初版 約8年 独自の「読む辞書」
日本国語大辞典 日本 500,000語 40年以上 約30年 歴史主義
OED イギリス 520,779エントリー 1857年〜1928年(71年) 常時オンライン更新 歴史主義
Merriam-Webster アメリカ 約470,000語 1828年初版 年次追加 記述主義
AF辞典 フランス 約53,000語 1694年初版 第9版に38年 規範主義
グリム辞典 ドイツ 330,000語 1838年〜1961年(123年) 改訂版2016年完了 歴史主義
RAE辞典 スペイン 93,000エントリー 1726年初版 約10年 22カ国協力

世界の主要辞書: 収録語数比較

辞書完成までにかかった年数

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日本の辞書の個性 ― なぜこんなにバラエティ豊か?

日本の辞書の面白さは、同じ「国語辞典」でも個性がまったく違うことだ。ラーメン屋が軒を連ねる横丁のように、それぞれが独自のスープ(方針)で勝負している。

専修大学の丸山岳彦は、サンキュータツオの著書を引用して各辞典の性格を紹介している:

辞書名 キャッチフレーズ 語釈の個性 「読書」の語釈要約
岩波国語辞典 「規範主義の番人」 簡潔・保守的。「〜は誤用」と断言 「本を読むこと。」
新明解国語辞典 「斜めに見る骨太辞書」 文章で世界観を語る。文明批評を含む 「現実の世界を離れ、精神を未知の世界に遊ばせたり…」
三省堂国語辞典 「新語に強い現場主義」 簡潔に「要するに」を伝える 現代的な用法に積極的
明鏡国語辞典 「いまの言葉を追う」 社会的な背景まで記述する 用法の変化を丁寧に解説
広辞苑 「百科事典+国語辞典」 60字程度で簡潔かつ的確 歴史的な意味変化に沿う

特に興味深いのは「やばい」の語釈比較だ。各辞典で扱い方が大きく異なる。岩波は「品の無い言い方」とピシャリ。新明解は「一種の感動詞のように使われる傾向がある」と観察者の立場。三省堂は「むちゅうになりそうで あぶない」と、若者の感覚を見事に捉える。

そして忘れてはならないのが日本国語大辞典。50万語、3000人以上の研究者、40年以上の歳月をかけた日本最大の国語辞典で、2024年には第三版の編集が始動した。2032年完成予定で、デジタル版として提供される見込みだ。

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辞書の未来 ― デジタル時代に「紙の辞書」は生き残れるか?

ここまで辞書の壮大な歴史を見てきたが、率直に問おう。紙の辞書はこの先どうなるのか。

紙の辞書の危機

電子辞書市場はすでに大幅に縮小し、日本で電子辞書を製造するメーカーはカシオとシャープの2社のみとなった。OEDの第3版はオンライン版のみで、紙での出版はないと見込まれている

三省堂国語辞典の第八版ではアプリ版も同時に発売された。「スマホやSNSが普及している中で、ネットの検索では得られない情報を多く盛り込んだ」と編集者は語る。

それでも辞書は生き続ける

しかし、辞書がなくなるわけではない。形を変えて進化するのだ。

日本国語大辞典第三版は2032年完成予定で、デジタル版として提供される。「情報技術と通信手段の高度化は未曾有のテキストコミュニケーション時代をもたらしつつあります。国語辞典は言語の変化・研究の進展に合わせて進化しつづけなければなりません」と小学館は宣言する。

紙の辞書には、デジタルにはない価値がある。岩波書店の奈良林愛は「全ての人が文学に運命的に出合うチャンスを持てるようにすべき」と語る。紙の辞書をめくるとき、目当ての言葉の隣にある「思いがけない言葉」との出会いがある。これはAmazonの「あなたへのおすすめ」とは質が違う、偶然の豊かさだ。

広辞苑の平木靖成は「60字程度で簡潔かつ的確な語釈・解説を示すこと」が広辞苑の強みだと語る。何千字ものネット情報より、60字の語釈のほうが「要点をつかめる」。この価値はAI時代にこそ際立つだろう。

紙の辞書は「レコード盤」に似ている。CDが出たとき「レコードは終わり」と言われた。ストリーミングが出たとき「CDは終わり」と言われた。しかしレコード盤は今も売れている。辞書もまた、形を変えながら、言葉の海を渡る舟であり続けるはずだ。

参考ソース:

まとめ ― 辞書は文化の鏡

辞書をめくるたびに、何十年もの人間の営みに触れている。最後に、各国の辞書アプローチを総括しよう。

代表的辞書 方針 運営主体 時間軸 ひと言で表すと
日本 広辞苑・三国・新明解 百科+記述+個性派 民間出版社 6〜10年サイクル 個性豊かな辞書百花繚乱
イギリス OED 歴史主義 大学出版局 常時更新 言葉の考古学
アメリカ Merriam-Webster 記述主義 民間企業 年次更新 言葉をありのまま記録
フランス AF辞典 規範主義 国家機関 38年で1版 言葉を守る「純化の砦」
ドイツ グリム辞典 歴史主義 学術機関 123年で完結 世代を超えた継承
スペイン RAE辞典 国際協力型 22カ国連携 約10年 言語圏の「共通通貨」
韓国 朝鮮語学会辞書 民族主義 民間学会 弾圧を超えて完成 言語は国のアイデンティティ

1冊の辞書には、言葉を愛し、時に命をかけて守った人々の物語が刻まれている。飯間浩明のように街を歩きながら言葉を拾い集める人、グリム兄弟のように自分の寿命では完成しないと知りながら書き続けた人、朝鮮語学会のように弾圧のなかで原稿を守り抜いた人。

次にあなたが辞書をめくるとき――たとえそれがスマホの辞書アプリであっても――そのひとつひとつの語釈の裏に、何年もの人間の執念が込められていることを、少しだけ思い出してほしい。